友達夫婦の息子はいま小学生で、どうやら学校内で浮いている存在だという。僕もよく知ってる彼は、いつでも明るくて、物怖じしないとってもいい奴。でも、他の生徒からは変わり者として、その親や学校からは問題児として扱われているそうな。
音楽家の子らしく、赤ん坊の頃からライブハウスに行ったりフジロックや野外フェスに行ったり、要するに平均的な家庭とはかなり違う環境で育っているせいか、自由奔放で、本人にそんなつもりは無いのになぜか目立ってしまうらしい。そういえば他の友達にも、子供についてのそういう話をよく聞くことがある。でも、僕から見るとその子達ものびのびとした本当にいい奴らで。こういう言い方が適切か分からないけれど、子供らしい子供というか、動物的というか。小学校低学年くらいまでって、好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いで、それを身体いっぱいに表現するのが当たり前。沸き出すエネルギーは放出させてあげないと。でも、学校や集団の中では押さえつけれれてしまう。「みんな」と違うという理由だけで。
そもそも人間なんて誰しも違っていて当然で、子供なんてなおさらで、だからこそ素晴らしく、だからこそ共生する意味があるのに。日本の教育は(日本しか知らないけど)、平均化が目的なのか、どうも他人と違っているという事を必要以上に問題視しすぎると思う。「みんな」と同じである事がどれだけ重要なんだろうか。というか、それより何より、
誰なんだろう。「みんな」って。
僕が上京してこの4月で19年、という話は前回書いた。東京へ来たばかりの頃は良くも悪くもカルチャーショックがあったけれど、札幌に住んでいる時には見た事が無く、いまだにどうしても馴染めない光景が、ある。それを上の友達との会話の中で思い出した。
電車の中での親子連れ。小さい子供が騒いだりしているとする。子供のすることだし、こっちは別に気にもならないんだけど、母親はこう言う。「○○ちゃん、恥ずかしいよ。みんなが見てるよ。みんなに笑われるよ。」それが騒いでいる子供より大きな声だったり・・。
初めて聞いたとき、なんともいえないイヤ〜な気持ちになったのを覚えている。今でもときどき目にする光景だし、別に東京に限った話では無いのかもしれない。でも、
誰なんだろう。「みんな」って。
誰なのか、何なのか、実態が見えない。なのに、凄く大きいもののような気がして、重たくなる。おそらく言う側はあまり深く考えてもいないと思う。でも、言われた側は確実にどんよりする。なんて便利な、尖った言葉なんだろう。
僕らがかつて子供だったように、彼らもいつか大人になる。せめて子供の間だけ、きちんと子供でいさせてあげるのは大人の仕事のひとつではないんだろうか。彼らは可能性のカタマリだ。そのいきいきとした輝きを、「みんな」という訳の分からない、言う側さえ見えていない化け物に喰わせてしまうなんて、あまりにもったいない。
本当に伝えなくてはいけない事なら、自分の言葉で、自分の責任で伝えればいい。社会と上手に関わる方法を教えたいなら、まずその代表として、自分が子供としっかり向き合えばいい。コミュニケーションは常に一対一であるべきだと思う。親と子であっても、教師と生徒であっても、大人と子供であっても、誰と誰であっても。この世界にいるのは、全員ひとりの、ひとつの魂をもった人間なんだ。「みんな」なんて、本当はどこにもいないはずなんだ。
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iMAGINATIONS 次のライブは4月28日(水・GW前日!)です。
http://imaginations.seesaa.net/article/142526040.html
posted by iMAGINATIONS at 12:23| 東京 ☀|
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